ヤマト運輸株式会社  ヤマト運輸トップ
宅急便30年のあゆみ
2006年1月20日、宅急便は皆様に支えられ、30歳の誕生日を迎えることができました。今や、年間10億個以上の荷物を扱うまでに成長することができた宅急便ですが、発売初日の個数は11個だけ。それでも、お客様に便利にお使いいただきたい、という思いからヤマト運輸はいろいろなことにチャレンジしてまいりました。ここでは、そんな宅急便の簡単な歴史と、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。
創業期 宅急便開発 宅急便成長期
創業期
創業当時、トラックの前で記念撮影する創業者・小倉康臣(右端)と運転士たち
▲創業当時、トラックの前で記念撮影する創業者・小倉康臣(右端)と運転士たち

 全国のトラック台数が204台だった1919年、ヤマト運輸は銀座でトラック4台を保有する自動車輸送専門会社としてスタートしました。そして、創業11年目には、日本初の路線事業を開始。数年後には関東一円に輸送ネットワークを作り上げるほどに成長したのです。時代は高度成長期で、路線トラック事業が爆発的な伸びを示した時期でもありました。

 ところが、暗い影が忍び寄ってきたのもそのころ。60年代半ば以降、高速道路が次々に完成し他社は長距離輸送にどんどん参入していきました。しかし、ヤマト運輸は市場の変化を見逃し、出遅れてしまったのです。気付いた時にはすでに手遅れで、荷主さんは先発業者を利用していました。そんな時、73年にオイルショックが発生。繁栄の道から一転し、経営危機がささやかれる会社になってしまったのです。

宅急便開発
宅急便の生みの親、小倉昌男
▲宅急便の生みの親、小倉昌男

 1971年に社長になった小倉昌男は、ヤマト運輸が低収益である理由を追求します。そして、それまで業界の常識だった「小口荷物は、集荷・配達に手間がかかり採算が合わない。小さな荷物を何度も運ぶより、大口の荷物を一度に運ぶ方が合理的で得」という理屈が誤りだと気付いたのです。小倉は「小口の荷物の方が、1kg当たりの単価が高い。小口貨物をたくさん扱えば収入が多くなる」と確信し、75年の夏「宅急便開発要項」を社内発表しました。この要項には「基本的な考え方」として

[1]需要者の立場になってものを考える
[2]永続的・発展的システムとして捉える
[3]他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
[4]不特定多数の荷主または貨物を対象とする
[5]徹底した合理化を図る

が記されていました。

宅急便マニュアル
▲宅急便マニュアル

この宅急便の原点とも言える「5箇条」をもとに、若手社員を中心としたワーキンググループが新商品開発を進めたのです。

 そして76年1月20日「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品『宅急便』が誕生したのでした。

 
当時の荷物の送り方
 当時、一般個人がモノを送るためには郵便局に荷物を持っていく必要がありました。それでも郵便局が受け付けてくれるのは6kgまで。それ以上の場合は、しっかり梱包し紐をかけ、荷札をつけて国鉄の駅に持ち込まなければいけなかったのです。こうした状況を振り返って小倉は「私は、このマーケットは大変おもしろいと思っていた。なぜなら、競争相手がいないのです。一応2社あるが、どちらもあまりサービスが良くない。田舎から柿を送っても、東京にいつ着くのかはっきりしない。ここへ参入すれば、必ず成功すると確信しました(後略)」と述べています。
宅急便成長期

 発売開始後、おかげさまで宅急便はどんどん世の中に受け入れられることができました。その理由は、地域に密着したSD(※)をはじめとする社員が、何とかお客様のご期待にお応えしようと、サービス・商品を開発してきたからかもしれません。

 ここではサービス・商品開発の裏話や高い品質を提供するための仕組みなど、宅急便の成長過程で生まれたいくつかのエピソードを紹介します。

(※)SD・・・セールスドライバー。宅急便のドライバーはただのドライバーではない。営業活動 = セールスも行うドライバーである、という意味が込められています。

スキー宅急便
誕生は地元社員のアイディア
  Pサイズの発売
世論の後押しでサービスを展開
  全国ネットワーク構築
監督官庁との戦い
  情報システム
荷物には情報がある
  ウォークスルー車
SDの城はこうしてできた
商品開発と取扱個数の推移
 
このページの上部へ
 

Copyright (C) 2007 Yamato Transport Co., Ltd. All Rights Reserved.

創業期 宅急便開発 宅急便成長期 ヤマト運輸株式会社